「ようこそ」という言葉をこれほど頻繁に口にする国は他にありません。そしてエジプト人がその言葉を口にするたび、それは本心からの歓迎です。悠久の歴史を持つ古代エジプト文明が人々を魅了し続ける一方で、現代のエジプト人も同じように驚くべき存在です。
歴史の秘密
アル・ミンヤの歴史的秘密を解き明かす:時空を越えた旅
アル・ミンヤは、エジプトの歴史の中で非常に重要な位置を占めてきた、深い歴史を持つ都市です。紀元前3100年頃の王朝時代が始まる以前、この地域は16番目のノームとして独自に繁栄していました。その後、紀元前3200年頃のメネス王によるエジプト統一に伴い、このノームは「オリックスのノーム」と名付けられました。この名称は、おそらくこの地に生息していたオリックスというアンテロープ(レイヨウ)にちなんだものです。
オリックスのノーム:古代の中心地
オリックスのノームは、紅海ルートに接する重要な交易拠点として繁栄し、商人を引き寄せて活気ある経済を育みました。興味深いことに、ギザの大ピラミッドで知られるクフ王がここで生まれたとする伝承もあり、この地は古く「メナト・クフ」と呼ばれていたと言われています。正確な場所は未確認ながら、現在のミンヤ近く、ナイル川の西岸に位置していたと考えられています。
権力と名誉の座
古王国の崩壊により、メナト・クフの指導者たちはかなりの自治権を得ました。この独立性は、第一中間期のヘラクレオポリスとテーベ間の権力闘争の中で明らかとなります。最初は中立の立場を保っていた16番目のノームの統治者たちは、最終的にテーベの王と同盟を結びました。この戦略的な動きにより、彼らの影響力は第11王朝を通じて確固たるものとなりました。
王子たちの遺産と衰退
ファラオたちが壮大なピラミッドを築いたのとは異なり、オリックスのノームの王子たちは、現在のベニ・ハッサン付近の石灰岩の崖に墳墓を設けました。これらの墳墓には精巧な壁画が描かれ、その時代のエジプト生活について貴重な洞察を与えています。しかし、彼らの権力は、ファラオ・アメンエムハト2世(紀元前1929~1895年)の治世下で大幅に削減され、衰退の道をたどることとなりました。
中間期における闘争と変容
第15王朝のヒクソスの台頭により、ミンヤの王子たちは権威を取り戻そうと、これら新しい支配者と同盟を結びました。しかし、テーベのファラオたちが復権し、ついには紀元前1540年にアフモセ1世がヒクソスを追放したことで、ミンヤの支配者たちは力を失いました。その結果、彼らの墳墓は破壊され、新たな目的で使われるようになりました。
ギリシャ・ローマ時代
ローマ皇帝ハドリアヌスの下、130年にアンティノウスを記念してアンティノポリスが設立されました。この時代には、現在のエル=アシュムネインとして知られるヘルモポリス・マグナも重要性を増し、トト神に捧げられたギリシャ神殿の遺構が今もその名残を留めています。
ビザンチンとアラブの時代
この地域は、328年にサマルート近郊に聖母マリア修道院を建設した皇后ヘレナによって、新たな重要性を得ました。アッバース朝の支配下では、街の名がイブン・カシブと改められ、ファーティマ朝のカリフのもとで繁栄しました。エル=アムラウィ・モスクやエル=ラマティ・モスクといった著名な建築がその象徴です。
現代のミンヤ
ミンヤは、ムハンマド・アリの治世下で主要な農業拠点へと変貌を遂げました。イスマイルの時代には、広大な綿花やサトウキビのプランテーションが広がり、都市の繁栄がさらに加速しました。1873年に完成したイブラヒミヤ運河は都市化とインフラ開発を促進し、アメリカ南北戦争による世界的な綿花供給の混乱がミンヤの経済的重要性をさらに高めました。
建築面では、古典的なスタイルやロココ調の豪華な邸宅が建ち並び、街並みが華やかになりました。20世紀には、カイロまでの鉄道建設や英国大使館、オスマン銀行の支店の設立など、さらなる発展を遂げ、ミンヤの経済的地位が一層強固なものとなりました。
しかし、1952年以降、その影響力は衰退しました。スエズ危機や国有化政策によって状況が悪化し、外国人居住者の離脱に伴い旧市街地へ再び人々が集中するようになり、過密化と都市の衰退が進みました。
アル・ミンヤの新時代
1960年代の「アルド・アル・モウレッド」公共住宅プロジェクトは、住宅危機をある程度緩和しました。その後1970年代には、ナイル川に近い現代的な生活を提供しつつ、この都市の古代の壮麗さを反映した「アルド・スルタン」という新しい地区が誕生しました。
アル・ミンヤでは、歴史の層が織りなされ、変化し続ける姿を見せています。エジプトの永続的な遺産の縮図として、この都市は絶えず進化し、再生してきました。
2020年3月18日に作成
2025年3月24日に更新
アル・ミンヤ観光ガイド

